ナンシー・クレス『ベガーズ・イン・スペイン』

ベガーズ・イン・スペイン (ハヤカワ文庫SF)

ベガーズ・イン・スペイン (ハヤカワ文庫SF)

『無眠人』シリーズ、『プロバビリティ・ムーン』三部作を手がける著者の短編集。
 無眠人というアイデアが気になって手を出してみました。

ベガーズ・イン・スペイン

 あなたもスペインの物乞い(ベガーズ・イン・スペイン)なの?
 表題作。確か最初の無眠人シリーズだったか。
 胚の段階で遺伝子操作をすることで、睡眠を必要とせず、しかも明るく、活発で、知能も優れた人間を作れるようになった世界。そのようにして生まれた無民人(スリープレス)が増えていくことで、社会や人の変容を主人公リーシャの視点で見ていく。
 作中にはヤガイ(Y)エネルギーを開発した日本人・ヤガイが提唱するヤガイイズムという架空の思想・主義が登場し、社会と個人の関係についても言及される。無民人に対する有眠人の嫉妬と嫌悪は、従来の新人類テーマの流れそのままですが、「スペインの物乞い」などに代表される思想テーマなんかが他と一線を画す所でしょうか。

眠る犬

 人の心をひとつにまとめておいたり、ばらばらにしたりするものってなんだろう。
 無民人シリーズ番外編? 前編の作品と時間軸が重なっており、同じ出来事が異なる場所と人から語られている。が、主題はそこではない。
 この話でちょっとショックなのは「有名な無民人」=ベガーズ・イン・スペインの主要登場人物の名前を、無眠犬(途中で撃ち殺されてしまう)につけるくだりでしょうか。特に子犬を産む母犬は、主人公リーシャの名前が与えられてますし。
 今回の主人公は有眠人で、無眠のテクノロジーによって運命を変えられてしまう。そんな彼女のたどる道は――というお話。
 無眠人が有眠人の世界から引きこもるためのシェルター・サンクチュアリを訪れるシーンがあるが、周囲を囲む観光客の態度はぞっとさせられますね。それがあるから、改めて聞くあの訃報が余計心に痛い。
 それにしても、オメガ犬になって侵入するあの方法って本当に出来る物なのでしょうか? 読んでいる間は凄いなーと思ったけれど、ちょっとすると疑問が湧いてくる……。

戦争と芸術

 カイ・ラヌ、カイ・ラヌと息を継ぎ……。
 短い目の話。異星人との戦争のさなか、主人公は異星人が収集した地球人の芸術品の鑑定に命じられる。
 著者は親子関係・家族という主題に強く関心を持っているようで、この話にもやっぱり母と子の確執が絡められています。表題作も父親と娘、姉と妹、継母など色々な葛藤がありましたし、眠る犬でも妹の死が暗い影を落とすことになる。
 この話は主人公が男性である点が、他の短編と違う。ただ、そこで出てくる親が男の将軍じゃなく女大佐だったりするのが、やはりらしさなのかもしれません。
 しかし戦争相手のテル人についてはもうちょっと詳しい説明が欲しかった所。ルー軍曹いい人ですね。

密告者

 われらが現実を分かち合うために
 多数の賞を受賞した中編。三部作『プロバビリティ・ムーン』の原形だそうだが、読んだ人のレビューによれば別物の話らしい(物語はリセットされてる、と解説にもあったしなあ)。
 今回の主人公はエイリアンで、地球人とは違う独特の価値観「共有現実」を持っています。互いの現実を侵害する者は同胞の「現実者」ではなく、特に他者の確固たる現実=肉体を侵害した者は、「実在性」を失ってしまう。そのような「非現実者」は終身死亡の刑を言い渡され、死してなお祖先の魂へと帰ることは出来なくなるのだ……。
 ということなのですが、いまいちこの辺の設定がよく分かりませんでした。一通りのことは言われているし、主人公の一人称で語られているため、当人自身が自分の「常識」を語ってくれることもありません。
 ただ、当人にとって知悉していることだからこそ、読んでいるこちらも何となくのニュアンスぐらいは感じられるので、説明不足とか片手落ちに感じることはありませんでした。
 この世界観には結構興味をそそられるので、これを気にプロバビリティにも手を出してみたい所存。

想い出に祈りを

「これはローズマリー、追憶の花」
 ショートショート
 年取った母親と成人した息子が延々話しているだけですが、これもちょっと設定が分かりづらい部分が。「記憶が私たちを殺す」ってことは、最初人間がとても長寿になった世界で、肉体は長寿でも精神によって殺されるということなのかと思いましたが。
 主人公の息子の年齢がわりと現実的なので分からなくなった。もしかして彼らも異星人なのかもしれない(密告者の主人公とその同族は、首毛や四本指などの一部特徴が描写される以外、地球人とどれだけ離れているかも不明)。

ケイシーの帝国

 レグルス、フォマルハウト、リゲル
 アルクトゥス、ポラリスカノープス、アルタイル

 なんとも痛ましい物語であることよ。
 宇宙人と地球人が交流するようになった世界の、その歴史の始まりでは、きっとこういう人たちがいたんだろうなと思わせてくれる。メタSFということでか、珍しく(あまり)親子関係などは絡まない話だった気がする。
 この物語を要約する時、冒頭に出てくる「これは銀河帝国を失った男、ジェリー・ケイシーの物語である」というのが一番しっくりくるあたり、ナンシー・クレスという書き手の巧妙さを感じる。そう、ケイシーは銀河帝国を失った。

ダンシング・オン・エア

 いかに強い母の愛情をもってしても、十七歳の娘に三十五になった自分自身の姿を想像させることはできない。
 傑作。本書の最後に持ってくるにはふさわしい、何もかも完璧な一本だった。
 扉をめくるとモリエールの言葉を引用したタイトルの意味が出てくるのだが、この表題からして秀逸だ。巻末の解説にダンジング・オン・エアが、空中舞踏のみならず「絞首刑」の意味があるという言葉もまた、読後に不吉な影を残してくれる。
 能力強化したダンサーによる、より素晴らしい芸術――「バレエとナノテク」という、どうして今まで思いつかなかったのかという組み合わせからして斬新。人体改造はスポーツの世界でもドーピングなどよく知られた問題として広まっているのだし、同じく肉体を酷使し、人の限界に挑むという点では、テクノロジーが普及する素地は充分にあるジャンルだった。
 更にそんな背景が、母子の葛藤というドラマとも有機的に絡んで読み応えのある内容だった。
 バレエダンサーという職業の華やかさと危うさ。なれるかどうかも怪しく、このまま打ち込めば娘は高校すら卒業しなくなってしまう。よしんばダンサーとなっても三十五歳とまだまだ人生も長い段階で引退を余儀なくされるばかり。
 そんな人生から娘を引き離したいと親が思うのはごく自然なことだと感じるのですが、「愛情」というものにある程度エゴがつきまとってしまうのは必然……。「一度も応援してくれなかった」という娘の叫びは何とも心苦しい。
 作中では強化されたバレリーナが殺害される事件が起こりますが、主人公は事件の推移にも解決にもまったく関与しません。ただその二次影響などを記者として追うだけで、主軸はやはり母子のドラマや天才バレリーナ・キャロラインの秘密。
 キャロラインとアンナ母子の確執は主人公母子とはまた合わせ鏡。そうした人間たちの悶着の間にもう一つ、能力強化された犬のエンジェルが差し込まれている。命令を忠実に守り、そのことを至福と受け止めるエンジェルの姿がまた切ない。
 エンジェルはもう一人の主人公として物語を語る存在でもあり、そうした多層構造がより一層の深みを物語に与えてくれている。何度も読み返したくなる中編だった。