帚木蓬生『閉鎖病棟』

 あなたたちは、兄さんが狂っているとばかりおっしゃいますが、本当に兄さんのことを思ったことがありますか
 この二十年、あなたたちはこの病院の中に、一度だって足を踏み入れたことがないでしょう。今日ここに来るとき、電話で病院の場所を訊いてきたではありませんか
 そんなあなたたちが、これまで兄さんの幸せを心にかけていたとは、わたしには思えません

閉鎖病棟 (新潮文庫)

閉鎖病棟 (新潮文庫)

 画像のオビにも有るとおり、山本周五郎賞受賞作品。出版が九十六年のやつで、その文庫版。
 作者自身が精神科医と作家の二足のわらじで、他の著作に医療ミステリーなどもあることと、裏表紙の粗筋から、最初は「精神病院で起こった殺人事件を描くミステリー」なんて勘違いしていました。が、殺人事件は起こるには起こりますが、それは物語も三分の二を過ぎてから。
 実際はまったくミステリーではなく、ヒューマンドラマでした。家族からも世間からも疎まれ、帰る場所を持たない精神病院の患者たち。退院させられるくらいなら自殺してやる、なんて構えの人もいれば、もう自分は病院に骨を埋めるんだろうと諦めている人もいて、けれど、心の底では退院したいとも願っている。
 解説にもあったんですが、本書に登場する人々はほとんどが精神病者ですが、いわゆる「精神異常者」とは違います。入院したてのころはそりゃ大変で、中には殺人を犯してしまった人もいますが。タイトルと違って主要な舞台は開放病棟で、出てくる人たちもおおむね症状が安定しているから、というのもありますけれど。
 何というか、正常と異常の境目って何? という気持ちにさせられる人物描写です。
 主人公のチュウさんや昭八ちゃんのように、入院の必要がないのに居場所がない人たちなんかもいて、精神病者に対するバイアスを浮き彫りにしている作品。それは作中の描写だけじゃなくて、入院患者たちの「まっとうさ」に驚く私たち読者に対しても、です。
 群像劇ということで、最初に女子中学生の堕胎というスキャンダラスなエピソードで始まったかと思えば、戦後間もない田舎の風景に切り替わったりして、序盤は少々戸惑いました。
 最初は主要登場人物の生い立ち(チュウさんのぞく)が描かれ、三番目の昭八ちゃんのエピソードが終了してから、やっと病院が舞台になります。ここまで五十ページぐらいですが、話的にはもちろん重要な箇所。
 ことに、秀丸さんの手紙で島崎さん(女子中学生)の身の上が明らかになった時には思わず冒頭を読み返して、この当時、彼女がどれだけ過酷な境遇にいたのかと愕然としてしまいます。本当、自分を粗末になんて扱っていなかったんですよね……。
 でもそれだけに、裁判の時の再会で「赤ちゃんが好きだから」と彼女が言ってくれたのは本当に救いでした。
 同じように、最初のほうの天満参りのシーンも、読み終わってみると「二度と帰らない美しい日々」となっていて、その切ない味わいに胸が震える。序盤、島崎さんが援助交際の相手に選んだ男が語った身の上話とか、情景が目に浮かぶような田舎の風景とか、細かい所までさまざまな人の「人生」が感じられる筆致とあいまって、群像劇の旨みと深みが出ている。うーん、ちょっと偉そうに語ってしまったか。
 最初のほう、秀丸さんや昭八ちゃんの生い立ちを描くあたりでの、「戦後間もない日本の農村」の風景が好きです。世代的にそんな時代にゃ生まれていないんですが、日本人の原風景的な、血に根ざした景色が思い浮かぶような……。
 そんな、一文字一文字から空気が漂ってきそうな文章。それは皆川博子佐藤亜紀(このお二方をいっしょくたに並べるのもアレかもしれませんが)の文が持つ、美しさとは趣を異にして、どちからというと平易な文です。でも、ひっそりとした息づかいが聞こえそうな文章なんですよね。
 帚木作品はもう一つ、ハードカバーで『インターセックス』を積んでいるんですが、こちらも早々と崩そうと思います。精神病院が舞台ということで手に取ったんですが、これはかなりの収穫でした。