ダニエル・キイス『五番目のサリー』

「ほかたのひとたちなんかいない。わたしだけよ。わたしひとりだけよ。ほかのひとたちなんかいない。わたしだけよ。わたしひとりだけよ。ほかのひとたちなんかいない……」
 ああ、その言葉はあたしを苦しめた。

五番目のサリー〈上〉 (ダニエル・キイス文庫)

五番目のサリー〈上〉 (ダニエル・キイス文庫)

五番目のサリー〈下〉 (ダニエル・キイス文庫)

五番目のサリー〈下〉 (ダニエル・キイス文庫)

 キイスの多重人格もの、その2。今度はフィクションです。
 何となくビリー・ミリガンより後だと思っていたけれど、執筆はこちらが先だったそうで。スポットの概念とかはありませんが、交代の兆候にアウラと呼ばれる冷気(寒気)と頭痛があるのが特徴かな。
 ビリー・ミリガンを読んだ後、『踏みにじられた魂』*1を手に取ったんですが、これが読みにくかった。なんかOPが同じこと繰り返し言っている部分が散見されて、これ半分か三分の一にまとめられね? って気が。そんで本編が始まったら、OPと一人称が同じで、でも中々名前が出なくて混乱するし。臨床記録と二人の主人公(セラピストと患者)の視点が、短い間隔で切り替わるし。で百ページそこらまで読んだところでこの本がきたので、さっそく手をつけた次第。
 記憶喪失に悩まされるサリーが精神科にかかるところから物語は始まる。
 発見された四つの人格、中々自分の病気を認められないサリー、そして一人一人統合されていく人格たち、明かされる彼女の過去。多重人格のために破局した結婚生活は厳しいですね。いつも思うんだが、多重人格に憧れる人はこうした可能性をなんで考慮しないんだろ? いや考慮しないから憧れるんだな。
 猫が死ぬくだりは、猫好きの私にはきついものがあります……。あんのクソ親父が!
 あと、離婚した夫のもとで暮す子供たちとの会話もきつい。
 サリーの別人格は、再婚した元夫に向かって、非常識な時間に脅迫電話を繰り返しかけていて、それで子供たちには彼女が頭おかしいって説明しているんですね。「ママみたいになりたくない」とか「ママを怒らせたらひどいことされる」とか面と向かって言われるんだもんよ。まあだからこそ、それを耐えた彼女はとても強くなったなあって喜べるんですけれど。
 逆に、マネキンのマーフィと話すデリーのシーンは、切なくて良かったですね。一緒にダンスしたりはもうシュールでしたけれど。この物語の語り手をつとめるのもあって、デリーが一番好きです。
 サリーはいつもそれぞれの人格が起こしたトラブルに巻き込まれ、いつ憎悪の塊・ジンクスが出てくるかハラハラします。けれど、ビリー・ミリガンが暗闇にフェードアウトするような暗い結末だったのに比べ、本作はちゃんと人格を統合してハッピーエンド。まあ、ちょっとあっさりしすぎて物足りない感じもありますが……。一年後の再会見たかったなあ。
 ノンフィクションのビリー・ミリガンは登場人物が膨大でしたが、サリーはフィクションということで、キャラ数が切り詰められてすっきりしています。ぱっと筋を書き出すと、一人の多重人格患者の治療過程ってだけなんですが、そこに絡む人間関係──就職先の上司からモーションをかけられたり、自分を治療するロジャーに思慕をつのらせたりといったドラマが見られます。ちょっとサリーもてすぎな気もしましたが(笑)。
 本編とは関係ないけれど、舞台設定の空気感が如実に感じられるのもよかったです。映画のタイトルや俳優の名前やらが、普通に会話にでてきて(だから巻末に注釈がある)それが本書出版の「八〇年代のアメリカ」って感じ。
 また、余談ですがこれの訳者さんアシモフの『神々自身』も訳しているんですよね。つい昨日読みたいと思って探したら絶版になっていてがっかりしたので、何か妙な偶然。読みたい名作SFはたいてい絶版になっていて困る。ま、せっかくだから同作者の名作SF・アルジャーノンでも読みますか。その前に23の棺と、あとできたら『クローディアの告白』。
 あー、続ビリー・ミリガン楽しみだぜ。

*1:新装版『私は多重人格だった』。なんで改題しちゃったんだろう