かくて彼らは死せり!

『野郎どもの死に様をいかに格好良く書くか』を考えてみることにした。


 野郎ども(ファッキンガイズ)と言ったが、つまりは漢のことであって性別のそれには限定しない。
 まあ前回に引き続き、『ブラスレイター』の話なんですがね。
 このアニメ、最後の最後で台無しの演出があるものの、まあそれはどうでもよろしい! ようはこの作品、「男たちの輝く死に様」を鑑賞するアニメといえましょう(あとはCG戦闘板野サーカスとかバイクですかね)。
 キャラクターの死を嫌がる読者は一定数いますし、実際意義のない死には納得がいかないものです。しかし、死ぬということは、その人生を終えて完結すること、ひいては完成することです。終止符を打たれるのならばせめて美しく。それに、死に際を描くということは、そのキャラクターを「最後はどうなるか」とちゃんと考える、作り込むということでもあるでしょう。
 まあだからって、死相漂うキャラばかりになっても困るんですけどね。フラグと気づかせないフラグを蓄積していく手法とか(ブラッドのお守りとか?)。『武装錬金』のキャプテン・ブラボーは本当なら死ぬはずのところを、作者が変更したキャラですが(その判断は世界観的に物語的に適切だったと思うでありんす。あそこでブラボー死んでいたら、せっかくの大団円に影が落ちる)。なんか「伸び代のないキャラだと思ったら死相だった」みたいなこと言われていてあーなるほどと思ったり。ガンダム00でも、23話のあれを観た後だと、ちゃんと死ぬ前に積み重ねがあったことが分かる。
 で、ブラスレイターウィキペディアでも主要人物枠から漏れているスナイパーコンビ・アルとブラッドの死に様*1、序盤の中心人物だったゲルト、そしてずっとやられ役だと思いきや漢を見せたXAT一班隊員などなど*2、死んで欲しくなかったけど仕方ない、そして死に際に輝きを放っていったキャラクターたちです。
 キャラクターを作り込んで、作り込んだ上で最高の死に様を用意する。それもまた愛(「愛って言えば許されると思ってんじゃねーよ」「だがこれが愛でなくてなんだと言うのか」)。キャラクターというのは、本筋のストーリーの中に入れ子として存在する、個別の物語だと思ってます。選択肢ごとの葛藤と、それを経ての選択と行動、行動を踏まえての後悔や達成感、そういった歴史を連ねることで、背景が生まれ個性が生まれそのキャラクターの物語ができていく。
 そして大きな視点では、その物語が作品本編のストーリーにも重なる(絡まる)。まあ物によっちゃ外伝的になってしまう場合もあるでしょうが。そういう「物語を内包したキャラクター造詣」を心がけていきたいものです。
 そして、「最高の死に様を用意する」ことは、彼らの物語にちゃんと決着をつけることなわけで。「別に殺さなくてもいいじゃないか」という向きもあるけれど、死は、その人生に対する終着点だから。
 輝かせるために死なせるんじゃなくて、輝ける死に方を用意したいのだ。

*1:三枚になったドッグタグとか、もういない相棒の名前を呼んだりとか。ブラッド→レーネ関連のあのシーンは、あれをやるためにスナイパーキャラだったのかと思うほど。

*2:一部ヘタレもいたけど