楽しいからさ。

 ちょっと思うことがあった。
 なぜ小説を書くか、私の場合、まず書くことを楽しんでいるし、楽しいから。だから小説家になろうと思った、はい三段論法。
 とはいえそれは理想であって、趣味を仕事にすると途端に苦しくなるのが浮き世ならいってぇもんです。しかし待ってください、この世は苦楽の海なのです。「楽」なだけの「楽しさ」なんてないです。苦労にせよ苦みせよ、とにかく「苦」があって本当の楽が成り立つのです。
 極端な例ですが、本当に何の楽しみ(達成感や充足感)を得られない労働をずっと続けていると、人間は発狂してしまいます(夢現労働とかね)。だから継続できるからには、どんなものであれそこに楽しさがあるわけだし、人間は楽しみをいつだって見つけようとします。だから、趣味を仕事にするんであれ、小説を楽しんで書いちゃいけないってこともないでしょう。
 それと、小説に限らず創作活動というものは、「自分が楽しみ、またその楽しさ(おもしろさ)を他人に共有してもらうこと」なんじゃないかと思います。本人が楽しんで書かないものを、読者は本当に楽しんで読めるのか? とかだと、まあ一般論だが。
 何かをつくるにあたって、人はどうしても入力されたものしか出力できないわけですし。また、この「共有」はコミュニケートにも近いものがあり、創作を通して自己を認めてもらうという作用もあります。それが劣等感の克服とか、直接の執筆とはまた違う楽しさに繋がる。
 私の場合、執筆における文章生産+自分の考えたものに形が与えられていく課程と、できあがった作品を人に読んでもらう+読んでくれた人から感想をもらうってのが、おもな小説の楽しみ。まー、後者に関しては「まだまだ自意識が強い。修行が足らん」みたいなこと言われちまったりもしますが、しかし、それは中々直らないんだろうなあ。
 なにせ、私が小説を書きたいそもそもの動機は「自分の話を聞いて欲しい」ですから。
 小説を書いて文学に貢献しようとか、そんな気持ちはさらさら無い。小説を書くことそれ自体はまあ、煩雑で面倒で苦痛な作業であるけれど、その困難と取っ組み合って七転八倒するのがまた楽しい。苦しいから楽しい。まだやったことはないけれど、そのためなら内臓悪くして血反吐吐いても血尿ひりだしても構わない。病気とかアルコールで内臓やられるとなるとイヤだけどね。血反吐を吐きつつ執筆した作家とか凄いよね。俺まだまだ甘いわ。
 しかしそんな屁理屈なんぞこねている間にまあ書こうぜ。一日最低30行書こうぜ。
 熾火のように燻り続け、時折私に「書け!」と命じるその声、その衝動は、今も私の頭を後ろから突いている。