皆川博子『死の泉』

「おぼえていたわ。あなたのかわりに」

死の泉 (ハヤカワ文庫JA)

死の泉 (ハヤカワ文庫JA)

『総統の子ら』、『聖餐城』に続き、私が手に取る皆川博子三冊目。面白い。前の二冊は小刻みに読んでいたので、ページも遅々として進まなかったのだが、今作はぐいぐいと読み進めることが出来た。文庫版にして600ページを超える大作ながら、非常にすぐれたエンターティメントである。
 吉川英治文学賞受賞作品であり、なんと構想十年。300枚ぐらいなら1ヶ月もあれば構想にはなんとか足りるけれど、十年ってまた遠大だなあ……。フレーズとしてはよく聞くんですが、構想期間中に他の作品も出さないと食っていけないだろうし。
 本作の舞台は第二次世界大戦中の独逸・レーベンスボルンに始まり、第二部からは戦後14年のミュンヘンという具合に移ろっていく。レーベンスボルンとは、金髪碧眼の特徴を持つ「アーリア人」を生産するために、SSによって設立された機関で、生命の泉という意味。つまり「産めよ増やせよ」というわけで、伝統的な信仰からすると非難される私生児の出産も精力的に支援していた。第一部の語り手であり、ヒロインのマルガレーテは未婚のままみごもり、レーベンスボルンに入所したことから物語りは始まる。
 レーベンスボルン(生命の泉協会)はアーリア人の生産機関。その目的のためには、占領地区から「アーリア的特徴」を持つ子供たちの拉致もいとわない。そうして連れてこられたポーランド人の少年・フランツとエーリヒは類いまれな美声を持っていた。これがマルガレーテの属するシュタインヘリングのレーベンスボルン最高責任者・ヴェッセルマンの目に留まる。クラウス・ヴェッセルマンはSS大尉の医師であり、芸術に対して偏執的な愛を持っていた。彼の欲求こそが、この物語の諸悪の根源となるのだ。無論、そこには時代背景も関わっているのだけれど……。
「重厚にして華麗」という形容がよく似合う幻想ミステリ小説である。三部構成になっていて、第一部は純文学的で静かな物語の運びなのだけれど、二部からは一気に年代が飛び、一人称から三人称視点で様々な人物がいり乱れる。そして、因果の糸が第三部に収束していくのだけれど、そこから先は雰囲気が一変し、銃撃戦だの古城の崩壊だのナチスの隠し財宝だのとやけに活劇的な味わいになる。が、その違和感も、最後の「後書き」を見ると納得させられるものがあった。
 この小説は入れ子構造になっていて、『死の泉』の作者はギュンター・フォン・フュルステンベルクというドイツ人であり、野上晶という人物の訳によるものとされている。つまりは作中作で、表紙をめくれば、その下にもう一つ表紙があり、最後には後書きがある。だが、この後書きも含めてこの作品は「皆川博子著『死の泉』」なわけで、その仕掛けによって、それまで読んでいた物語が「反転」をおこし、最後の最後に幻想と混迷の渦に引きずり込まれて、強烈な読後感を残すのだ。
 この「落ち」に答えはなく、様々な考察はあるけれど、それを裏付けるものはどこにもないから、ただ推測し続けるしかない。そしてそれが、長く甘美な余韻を残してくれる。ギュンターは、そしてクラウスは。マルガレーテはやはり接合されてしまったのか(最初読んだ時は、また新しい乳児でも抱いているのかと思ったけれど)。ギュンターが造ったミヒャエルは誰なのか……。
 このエンディングも素晴らしいが、それに至るまでの見所もたっぷりである。要素をぱぱっと抜き出していくだけでも、ナチスマッドサイエンティスト(実に俗っぽい言い方だが、まあ、分かりやすくはある)、去勢された男性歌手カストラート、人体実験とレーベンスボルン、ちょっと怪しげな少年たち(このへんの耽美臭は皆川博子のお約束みたいなもんですな)、北欧神話の不気味で幻惑的な比喩、などなどなど。
 中でも私が注目したいのは「正常なまま狂っている」マッドサイエンティスト、クラウス・ヴェッセルマン。小さな灰色の目とぶよぶよとした体格の、お世辞にも美男子とはいえない老けた容姿。美に対する変質的愛情。破裂するような笑い声。貴族であり、ナチであり、学者(医者)であり、支配的。「私の前でいいえ(ナイン)と言うな。常にはい(ヤー)だ」。良心の呵責とか、善悪を超越して己が信念のために突き進んで省みることがない。第二次世界大戦から、戦後にかけての時代を、彼が暴れまわった経緯がこの物語とも言えます。
 いわゆるマッドサイエンティストというキャラクターは類型化されたきらいもあって、たとえば『デモンベイン』のドクター・ウエストは、あれはあれで好きなマッドサイエンティストキャラなのですが、「天才となんちゃらは紙一重」を地で行くキャラで、学者っぽさはあまりないというか……。奇矯な言動の裏づけとしてそうなっている、という感じなのです。ヴェッセルマンは、容姿はちょっとあれだけど、とりあえず話していると普通。でも、彼の研究とかその辺のことになってくると、同じ言語を使っているのに意志の疎通ができない感覚に陥ります。真水と、何かが混じっているけど無色透明の水の違いといいますか、見た感じじゃ何もおかしくないけど、確実に決定的に違っちゃっている人。逆らわれるのが嫌いだったり、残酷な行動を平気で取ったり、己の行動にまったく悪びれたところがなかったり、役に立たないものは冷酷に切り捨て、よく分からないところで癇癪を爆発させる……。実に生々しい一人の人間として、マッドサイエンティストという今日類型化されたキャラが生きて動いている小説でした。
 ヴェッセルマンのキャラクターは前半の「静」の部分でたっぷり描写されているので、後半からの「動」の部分で、大暴れしても物語が破綻しないこのバランスがいいですね。人を軟禁するためにドーベルマンけしかけたり、なぜかゲルトを殺そうとしたり。母親が憎ければ子供までってことかしら。つーかスミスって結局ただの助手? レナとアリツェの落ちはびびったけど……時の流れって残酷。
 後書きによると、本作は舞台劇にもなったそうで。はて、この長い物語のどこをどう切り出したり要約したりしたのでしょう。ちょっと気になるので調べてみようかと思います。
 皆川博子ナチスドイツあたりを舞台にした作品では、『薔薇密室』か『伯林蝋人形館』がそうだったと思うのですが、さしあたって前者は俺の本棚の一角を既に飾っているのでした。タイトル的には伯林〜のが読んでみたいし買ってこようか。今まで読んできた三冊の中で、今作はダントツの面白さでした。佐藤亜紀の『バルタザールの遍歴』とはまた違った文章の美しさに酔いしれる。やっぱり文学賞は伊達じゃないよね。