佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』

 私たちはあの夏の昼下がりを思い出して、少し幸せになった。おそらく、未来永劫、あの午後の記憶だけで幸福になれるだろう。失うことで前にも増して鮮やかになった、痛ましい幸福の記憶。

バルタザールの遍歴 (文春文庫)

バルタザールの遍歴 (文春文庫)

 第3回日本ファンタジーノベル受賞作にして著者デビュー作。書いた当時は私とほぼ変わらない年齢でこのクオリティなのだから、嫉妬を通り越し羨望するばかりの傑作。
 文章にも味や香りというものがある。味がある文章は美味しくいただけるし、香り高い文章は酔うことが出来る。味にしてもエグ味や毒味があるが、それだって趣き深いものだ。一番いけないのは、味もスンパチもない文章で、そういうのはつまらない。無論、本書は味わい深く香り高い、そういう文章だ。もう最高、こういうのを私は求めていたのだ! という感じ。
 冒頭を読んだときは「硬くて古臭い、めんどそうな文章」と思ったのだがさにあらず。するすると読みやすく、ぐいぐいと引き込まれる、絡みつくような魅力を発する文体だ。「軽蔑に報いるに軽蔑をもってするのは自尊心の命ずる最短距離であるにしても、」とか。
 キリストに三つの宝を贈った東方の三博士・カスパール、メルヒオール、バルタザール。カスパールと名乗る貴族の息子である主人公は、伝統に従いメルヒオールおよびバルタザールを名乗る。彼らは「一つの体を持つ双子」だった。故国オーストラリアと独逸の接続(アンシュルス)、ナチスの台頭と第二次世界大戦、そして放蕩と放浪の旅路。なんら生産することのないその道行きは、極めて貴族的であると言える。
 本書を手に取ったのは、拙作『歓喜の魔王』を読んだ方から「この作品を思い出す」と言われたからで、知らずにネタが被っていたらどうしようかと思ったから。結果として、そんなことがどうでもよくなるほど面白い作品に出会えたわけですが。ネタかぶってないし。
 物語は最初、メルヒオールとバルタザールという世にも奇妙な双子の誕生と幼少時代を綴る。歴史のうねり、一族の凋落、パリでの放蕩、恋物語……。やがては生家も故郷も遠く離れて異国の地へ。基本的にどこへ行ってものんだくれ。ベルタを失ったとの乱行は派手でしたなあ。
 終盤は、序盤に少し出てきた幽体離脱的な何かも絡んで、若干冒険小説的な要素がまじってくる。コルヴィッツのキャラクターは手が込んでいると思ったけれど、少し喋らせすぎなのが引っかかった。つうかこの辺雰囲気変わっている気がしないでもない。
 最後は、これからもこんな人生が続いていくのだという事を匂わせての終わりで、少々不満。もうちょっと区切りが欲しかったなあ。
 あとは、マグダを大事に思いながらも、結局放置する形になったのが残念。あくまで妹……悲しいね。
 ともかく、この一冊で佐藤亜紀に惚れたので、他の作品もおいおい手を出していこうと思います。あー、皆川博子も積んでいるから、そっちも読み崩さないといけないんだけど。たは。