神林長平『七胴落とし』

〈この街を歩いている人間たちの……いったいどのくらいが本物なんだろう〉

七胴落とし (ハヤカワ文庫 JA 167)

七胴落とし (ハヤカワ文庫 JA 167)

 子供だけが感応力と呼ばれるテレパシーを持ち、それを失うことで大人になる。それ以外は、私たちの世界と何一つ変わらない現代日本(ただし八十年代)を舞台にした、青春SF。
 文庫の巻末でこの本のあらすじを読んだ時は、その設定からもっとメルヘンでリリカルでファンタジーなものを想像したが、甘かった。陰鬱で生臭くて夏の熱気も不愉快な、思春期の暗黒を抽出した作品である。
 いわゆる中二病とも異なる「大人は汚い」「あんたらは分かっていない」というシャウトの連続は実にいらいらさせられる。確か年代とか数えると著者はこのとき三十歳のはずだが、やはり狙ってやっていると思うのが自然だろうか(この辺の判断をつけるのは難しい。神林長平はこれで三、四冊目なので。膚の下は大長編だがかなり最近の作品だし)。
 まず主人公・三日月の厭世的というか大人を嫌いぬき、もうすぐ大人になってしまう自分に思い悩むキャラクターにうんざりしてしまった。別にそれだけならまだいいのだが、麻美が「悪趣味」と言ったように、最初のころやっている感応力を使ったグロテスクな幻像に引く。
 三日月の言うことも分からんでもないし、世の中には確実にこうして大人を嫌いぬき、徹底して断絶しようとしている子供たちはいるんだろうなあと思う。ただ、すでに四半世紀を生きてしまった身にはそれが腹立たしいと言うよりも、何と言うか物悲しくある。そんなに嫌わないでくれよ、と言うと少し変な気もするが。
 しかしその一方、三日月の「大人は醜い。俺も醜い。だがお前たちは気づいていない」とのたまう様には「うるへーそんなのはお前に教えられるまでもねーんだよ!」とむかつきもするのだが。こうした「俺が教えてやる」的鼻息の荒さはまさに子供という感じだった。
 でも十八、九でこれってちょっとガキすぎやしないかと思うのだが。読んでいて主要キャラの子供たちは高校生ぐらいのイメージになるが、実際はもう二十歳手前なんだよねえ。いや、刹那的な不良娘の麻美はまだそのぐらいに見えなくもないが、三日月が突出してガキくさいのかもしれない。
 結局、本作の登場人物は不愉快なばかりで、誰一人好きになれなかった。ただ、一足早く大人になった中川はましに見えるし、若林刑事は(最初の誘導尋問は腹が立ったが)「この人がこの話に出てくれてよかった」と思えるキャラクターだ。
 しかし基本的に、本作のキャラの不愉快さは、現実の人間のいやらしさや、くだらさなさをそのまま持ち込んだ物であって、だからその生々しさが自分は嫌なんですなあ。
 もちろん、キャラクターに共感できなくても本作は面白い。技術はあるので文章を追っかけていくことはそれほど苦痛ではないし、月子の存在など気になる要素もある。言葉が世界を創っている云々のくだり、現実と幻想の境目があいまいになっていく展開などいかにもな神林だし(いや神林作品あまり読んでないって言っておいてなんですが)。
 タイトルにもなっている妖刀・七胴落としの描写も素晴らしい。ほんの数行で凄絶な魅力を描き出し、切れ味を予感さえてくれるのだから、まったくため息が出るばかりの見事さだ。
 終盤近くは怒涛の展開となり、あれよあれよとクライマックスへ。だがラストは、盛り上がっていたところをプッツリ切られたような、尻切れトンボの終わり方に感じられた。あれはあれでいいのかもしれないが、佳子の台詞が「」でも〈〉でもなく《》で括られていたところに、妙な想像さえしてしまう。
 次の神林長平は、敵は海賊、あたりにしておこうかなあ。