ノベル・ド・ガスパチョ

 ブログを模様変えしてみました。
 さて、電撃一次選考落選につき思ったことをつらつらと。何が悪かったんだろ〜って反省会モードじゃないですよ。
 思えば新人賞の投稿というのはこれがほとんど初めてなのでした。一応、高校の時に一回やりましたが、まあカウントなしってことで一つ。なんですかね、真面目に「新人賞に作品を送る」って考えてやったのはこれが初めてではないかと。
 これまではネットで書いていたわけですが、ネットでしか書いていないと「仕事として小説を書く」意識は中々育たないのかも、と思いました。まあ、今まで私がぬるすぎたのかもしれません。昔いた投稿サイトはCGI任せで誰でもすぐ投稿できるし、いつやめてもいい、そんなアバウトなところでした。HPに掲載する前に審査するような所もありましたが、そういうのには参加しなかったなー。作品集めてサイト上で批評をかわすとか。
 で、投稿サイトの次にオンライン文芸マガジン『回廊』に執筆の場を移したのですが、こっちは雑誌形態を取るだけあって、何でもほいほい作品を載せてくれるわけではありません。締め切りがあるし、ページ数の規定とか色々あった。でも、それだって新人賞の規定に比べればまだまだ緩やかなんですよねえ。
 ページ数は決まっているけれど、直接編集と連絡がつくからある程度相談に応じてもらえたりもしたし。掲載するジャンルもわりと幅広かったような……。初期の『回廊』と第10号(テーマ「エロ怖い」だっけ)じゃだいぶ雰囲気も違うんでないかなー。編集の結果「これでは載せられない」って落ちた原稿もあったような。
 で、新人賞に作品を送る場合、そうしたネットの厳しさとは別の厳しさがあったわけですが。
 何よりも「他人に見られる」ってことを大きく意識したような気がしました。
 ネットでだって他人に見られるのはそうなんですけれど。たとえば自分でHP作って自作を公開するにしても、そこで発生する他人の目ってのはどうにも実感が沸かない。掲示板やメールでその存在を確認することはできるけれど、何て言うの「顔がない」んですよね、ネットの読者には。だから上でも下でもなくて、自作への感想やアドバイスから友達関係に発展していったりもする。そうやって身内ができていく。見ず知らずの他人、不特定多数の読者を想定して書く物と、身内にしか見られることを意識していない作品とじゃそりゃ心構えが違ってくるわ。
 何より、新人賞で自作を読んでくれる人ってのは、下読み(バイトの作家さん)であり、編集者であり、名のある作家先生であり。そうしたことを踏まえた「どこへ出しても恥ずかしくない作品」を書き上げる必要がある。
 それと、文章の体裁。
『回廊』はメールとかでも原稿を受け付けていたので、基本テキストデータだったのですが。大抵の新人賞は印刷したものでないと受け付けてくれないので、文書ソフトの出番となります。俺はつい二ヶ月(一ヶ月だっけ?)前まで文書ソフトすら持っていませんでしたが(笑)。だからよあけさんに頼んでPDF作ってもらったり、拾ったフリーソフトで誤魔化してみたりなんかしたりしてー。
 メモ帳とかエディタだと、一ページ何文字何行って設定がないから気にせず書けるのですが、文書ソフトで字数行数設定をすると、そこもやっぱり念頭に入れて書かなくちゃならない。こうした書き方って電撃の原稿やるまでやったことなかった。うーん、これでプロ志望だったんだなあ俺。
 小説「だけ」書いてちゃプロにはなれないってことをまざまざと身をもって知る……。印刷した原稿を手に取って得る実感、ネットだけで書いていたりなかったもの(まあ、同人活動はしてないので)。正確に位置を計って穴を開け、紐を通し、しつこく応募規定を読んでプロフィールや梗概を作り、神経質に住所を書いて投函する。
 ばかばかしいことかもしれないが、要するに世の中の事務手続きに関することで、小説におけるその手合いのものは一切やってこなかった自分が、ようやくそれに直面して経験を得たわけだ。ネットに向かってキーボード打っていた身で、いざパソコンから出てきた「印刷された紙」という現物を手にして、郵便局に持って行くという現実へ向けたアクションを起こすってのは、「夢」を「現実」の形にする第一歩そのもののように思えた。
 ああ、楽しいよ。もはやこの夢は曖昧な理想ではなくて、明確な目標に生まれ変わったのだから。
 今も書いている。既に書き上げた物の調整と、新しい物の構想と、両方。
 でも今日のところは、ガスパチョを作ろう。