死ぬか書くか、読むか殺すか、因果な商売の木曜日。

「小説系サークルに入っている人は、そこで満足してしまって、プロになれない」(大意)
 と言ったのは秋山古橋対談だと思ったけれど、どっちが言ったのでしたかね。
 とにもかくにも、『回廊』で3年以上長編短編を書き続けてきた私には耳に痛いお言葉である。
 が、私のような小説家死亡のたぐいは、決して頷いちゃいけない言葉だろう。頷くようなら、そいつはもう小説家志望と名乗るのは辞めるべきだ。小説家志望の立場からすれば、何としてもNOと言わなくちゃならない。最低でも「そうかもしれないけど、私は違う」という気概を持つべきだ。
 しかし、最近思うのだが小説系サークル、あるいはそれに類するネット上のコミュニティのような、「気軽に小説を発表できる場」ははたして、どれだけ小説家の誕生に功罪を持つかは興味深いところだ。
 私が初めて小説を発表したのは、富樫善博の人気(不定期連載)漫画「HUNTER×HUNTER」のファンサイト「ハンターの酒場」である。もちろんネット上のコミュニティで、ハンターハンターの二次創作をCGIで誰でも自由に投稿できるページである。そこでしばらく、幻影旅団ネタをいくつか書いて、そのうち飽きてやめた。
 とはいえ、そこで得たいくつもの感想や叱咤は非常に励みになり、しばらくして小説を書きたくなると、別のコミュニティを探した。そこで出会ったのが、同じくCGIで自由に投稿可能な「甘辛流小説家ギルドGAIA」であった。そこで投稿されている作品を読むのも楽しかったし、秋山編集長を始め、現在の回廊メンバーの何人かとそこで知り合った(というか、そもそも当時の秋山編集長のサイトからリンクを辿ってGAIAを見つけたという経緯があったりして、その秋山氏から自作に感想を貰った時は小躍りしたものだ。ああ懐かしい)。
 現在の私は当時の勢い(テンション)を幾許かなりと取り戻しているが、GAIA時代の異様な元気の良さには少々及ばなく口惜しい。当時中学生から高校生ぐらいである。単に歳を取ったというだけの問題でもないだろう。良い本を読むということは、小説を書く力を充填してくれるが、同時に「俺にこれだけのものが書けるのか」という自問を突きつける。自分の力に自信がなくなり、ふと筆を執ることに怯えを憶えてしまうのだ。それでも今まで掻き続けているけれど、やはりその気持ちにどこか勢いを削がれている部分もあるのだろう。
 GAIA時代と、それから少し後の時代の私なら、そこですかさず「ならば力を蓄えよう」と思いつき、それを実行したに違いあるまい。それでなくとも、いつかそれだけの物が書けると無邪気に信じていたであろう。けれど、今は違う。二十歳を過ぎた私は、力を蓄えるために時間を取っている場合ではない。蓄える暇があるなら、書かなくてはならない局面にある。もはや退く道も今更なく、進むか倒れるかの二択だ。
 しかし思うのは、「小説を書きたい」という衝動は、果たして抑えて蓄えるべきか。それとも素直に出力してしまうべきなのかという問題だったりする。冒頭に引用した言を見るなら、多少の衝動は抑えて、長編を書く体力にでも回してしまうべきかと思う。が、書き続けなくては書き方なんてすぐ忘れてしまうのが小説というもんだ。
 結局は基礎体力の違いなのだろうか? つまりは、小説家になりたいという意志の強さとか。結局のところ、普段書き散らしていても小説家になる人はなるし、同人誌をたくさん出してても、同人作家どまりになる人もいる。心構えって大事よね、なんていうとお茶濁しそのものですが。
 それにしても、今の時代小説系サークルに入らなくとも、ネット上に自由に発表できる場もある。そこから生まれてくる作家とてやはりいるのだろうし。まったく、プロ作家の立場からああいう事を言うお二人は、なんとも意地が悪い(褒め言葉)。