エンターティメントとしての秀逸な構造

 DVD最終巻の感想の前に。
 昨夜(この日記は一日ずらしているので23日の夜)に、波紋メンバーで雑談をしていました。いや、本当はかみなりおこし企画の集まりだったはずだが。波紋(非公開型創作系Mixi内コミュ・波紋塾)のメンバーである守護雷帝どんの誕生日を祝うため、同じ設定とプロットを三人くらいでそれぞれ書いて送りつける新手の嫌がらせについての会議でした。祝われる当のライヤン(雷帝氏)もその場にいたが。
 で、話の流れで武装錬金の優れた構造についての話題になった。
 武装錬金の何が優れているか? 一つ目は「錬金術の簡略化」。
 エンターティメントには「分かりやすさゆえの面白さ」がしばしば求められる。忍術は山田風太郎によって超人技となり、魔術はゲームでファイアーボールをぶっぱなすようになった。鋼の錬金術師(以下ハガレン)でも、初めて壁や地面から武器を錬成するシーンにはびっくりしたものだ。
 私はオカルト好きで、かつ設定に拘りすぎて縛られてしまう人間なので、そういう「娯楽としての必要な簡略化」には戸惑いを覚えてしまう。ま、慣れれば問題ないんだけど。
 同じ錬金術マンガとして並び称されることの多いハガレンとぶそれんだが、錬金術の取り扱い方には、両者大きな差がある。
 まずハガレンだが、これは作中に「等価交換」「全は一、一は全」などの言葉を散りばめて、錬金術の思想的部分に踏み込んでいる。これらはキャラクターのモチベーションの演出などストーリーに奥行きを与えているファクターとして使われている(アルとエドの修行時代のエピソードなど。特に等価交換はアニメで強調されている)。また、生命の樹などオカルティックなシンボルが登場して謎と興味を担い、実際の錬金術にゆかり深い人物(をモデルにしたキャラクター。パラケルススホーエンハイム/エルリック父)を登場させているのも特徴だろう。
 和月は「武装錬金」でそれをしていない。るろうに剣心では個々の流派を詳しく解説しいていた事も多かった気がするが、ぶそれんでそれは見られない。また、登場人物の殆どが錬金術師でしめられているハガレンに対して、ぶそれんに登場する錬金術師は三人のみ(パピヨン、Dr.バタフライ、アレキサンドリア)である。作中の錬金術は、オカルティックな要素は極力排された「超科学」であり、そこから生み出された「スイッチ一つの操作で誰でも扱える装置」として確立された産物を用いるのみだ。
 オカルティックなハガレンと、サイエンティックなぶそれん、と言うところか。
 また、武装錬金の構造において二つ目の優れた点は「錬金術の産物を滅ぼせるのは錬金術の力のみ」としたところだろう。
 錬金術という作中に設定された特殊効果を、「ホムンクルス=戦うべき敵にして脅威」と「武装錬金=戦うための対抗手段」と明確に分けている。ハガレンではホムンクルスも登場するが、基本的に戦闘はどちらも錬金術を使って戦う、というシーンが多い。一方でぶそれんのこの明確な差別化は、ゲーム的で分かりやすい構造を作っている。
 秘術によって生み出されたモンスターは、秘術の力でした倒せない。
 この構造自体は古今東西よく見られる。RPGなら、魔法の武器でしか倒せない魔法生物系モンスター。吸血鬼など人外のモンスターが人間側について、同じく人外のモンスターを狩るパターンもこれに属するだろう。現代アクションなどでは特に多いパターンだと思うが、脅威として登場する敵が、銃や現代兵器など、既知の技術では対抗できないという設定は数多い。そしてもちろん、対抗できるのは主人公やその仲間が持つ闇の技術や超能力なのだ。
 けれど武装錬金がそこから一歩抜け出たのが、前述の「差別化」であろう。遡るなら、ジョジョの奇妙な冒険第一部〜第二部における、「吸血鬼」と「波紋法」に近いかもしれない(が、吸血鬼と柱の男は一応関係あるが、波紋法はあとから連中に対抗して生み出された技術なので若干異なる。まあ、負の生命力を使う吸血鬼と、正の生命力を使う波紋法という繋がりはあるが)。
 敵は錬金術の産物、武器も錬金術の産物。そして背景世界では錬金術が生み出した更なる闇──ヴィクターと黒核鉄が潜んでいる。「この力がそんなに簡単に、みんなを幸せにすると思う?」構造の時点で、敵にして力という錬金術のジレンマを、ヴィクトリアの言葉やヴィクターの運命がよくよく示した。
 禁断の技術である錬金術を巡る戦い。武装錬金という物語は、このシンプルかつ旨味のある設定を、優れた構造でよくよく生かした物語であったと思う。
 つまり、和月先生は素晴らしいエンターティナーってこった!(ファンの欲眼)