超人道兵器アルマオンブレ

 最近ますます手荒れが酷いわけですが。
 手荒れっていつもは指先が痒くなるのに、今は指の付け根・手の甲・手首・顔・背中・腰と、どんどん末端から離れたところに症状が広がっていて、どうも違う模様。えーと……湿疹? もともとアトピー持ちなので痒さとは昔からの付き合いなわけですが、カイカイカイ……。とりあえず明日皮膚科へ言って診断を受けてこようと思います。
 手荒れの痒みは時々、やたら痒くなる時期が来て、数週間したら収まったりするんですが。今回はそれとは違うっぽい。


 ちょっと心惹かれた記事。
大量シナリオに物申す〜削ってこそプロなり〜
 ※リンク先はエロフィギュア&エロゲーレビューのブログなので注意。

〜この削る作業をどれだけできるかが、プロとアマチュアの決定的な差だったりするのです。漫画にしても、小説にしても、アマチュアの人は削り足りません。というか、ほとんど削っていません。プロの人でも、キャリアを積んでくると、どんどん削る技術が上がって無駄のないものをつくるようになっていきます。つまり、洗練されてくるんです。
 京極夏彦も最初の頃は「新人らしく書きすぎているところもあるが」ということを新書判の帯でベテランの小説家の方に書かれていました。プロデビューしても、えてして新人は書きすぎる。経験を積むにつれて、無駄な部分をそぎ落とすようになる。

 エロゲーの大容量喧伝について苦言を呈したエントリ。文章作品において、「削る(推敲する)」ことがいかに大事か書かれて、自戒の意も込めて日記のネタにさせていただきました。
 推敲と言えば、去年のスニーカーに出したやつは二ヶ月ずっと文章の添削推敲やってたましたね。おかげで、投稿前後に読んでいただいた方々からは、文章面で結構な評価をいただきました(ただしラノベっつーより一般文芸テイストの文章なので不安)。


 さて、ちょいと重い話。どうでもいい話かもしれない。
「ありふれた不幸」というものがあります*1
 フィクションの世界、特にラノベや漫画では重い過去を背負ったキャラクターが多く登場しますね。虐待されていたとか両親が死んだとか。で、読者の興味を惹くために、先発のものより一層悲惨なものを、残酷なものを、更に設定されたりする。そうやって段々、現実の倫理観が省みられなくなっていく。
 現実と虚構を一緒にしてはいけない。現実に決して起きて欲しくない出来事を、虚構に収めて安心することが悪い訳じゃない。むしろ、それは正しい精神の作用だろう。ただ、「忘れてはいけない」と思う。現実に起きている悲惨のことを。
 さて。「やったねたえちゃん!」という話があります。検索するとすぐ出ると思いますが、凌辱・鬼畜系エロマンガの一コマで、それだけ見るとほのぼのした一シーンなのですが、そこから後の展開は、「健気で薄幸な少女が強姦され、夢も希望もない日々が幕を開ける」とかお定まりの内容。
 で、私が胸くそ悪く感じたのは、その内容よりむしろその粗筋を紹介したブログでの言いようでした。確か「普段鬼畜気取っているVIPERがこの程度で鬱とかw」というもので。確かに、鬼畜外道を気取る輩が、ありふれたネタで凹むの所はせせら笑いの種としては充分です。ただ、「この程度で」ってのがどうにも引っかかる。
 そりゃあ鬼畜漫画としては捻りの少ないネタですよ。だがそのぶん、現実でも起こりうる内容であって、そこがシャレにならない。エロに突入する前の、少女のささやかな人生の描写ともあいまって、余計胸くそ悪くなる。
 ありふれた不幸だったら、それは分散されて、一つ一つは「大したことない」不幸になるのか? 多すぎる悲惨は、取るに足りないことに落ちるのか? 違うだろう、逆だろう。本当なら、そんなものがありふれてしまうことが間違っているんだ。どれだけ「よくある話」でも、それは一人一人違う子に起きたことだ、別々の人生につけられた傷だ。
 悲惨な物語を読んで、「これが本当の話じゃなくて(フィクションで)良かった」と思うのはいい。ただ、「なんだこの程度か」「グロくないなあ」で全部済まされてしまうのは、時として寒気がする。パスカの祭りを外から眺め、ワインくゆらす観客のごとく*2

*1:私信。これは兄上との会話の上で出た言葉ではありますが、その発言が不快だったとか言うんじゃなく、あの後ちょいと考えてみたのであって、他意はございません。怒らないでね フルフル

*2:沙村広明『ブラッドハーレーの馬車』